東京・中野区は、手助けが必要な障害者と、手助けをしたい人を結ぶ「ヘルプカード」を作成しました。9月1日に行われる区の総合防災訓練の会場(大和小学校・神明小学校)を皮切りに配布がスタートします。「ヘルプカード」は都議会公明党が提案をしていたもので、中野区は都の補助を活用してカードを作成しました。今年度に1万枚、来年度にも1万枚を配布することにしています。
障害のある人の中には、災害時や緊急の時、または日常的に「ちょっと手助けが必要」な場合に、コミュニケーションに障害があってそれを伝えられない人や、困っていることそのものを自覚していない人もいます。障害のある人が「ヘルプカード」を身につけておくことで、周囲の人が配慮や手助けしやすくします。
「ヘルプカード」の中には、氏名や連絡先のほか、配慮してほしいこと、手助けしてほしいことを自由に記入するようになっています。例えば、「耳が不自由です」「移動のとき誘導して下さい」「アレルギーがあります」「○○が苦手です」などを記入しておきます。
もし、あなたがまちの中で障害のある人が困っている状況を見かけたら、声をかけ、このヘルプカードの内容に沿った支援をして下さい。こうした輪が広がることで、障害のある人の安心につながっていきます。
2013年8月30日金曜日
2013年8月17日土曜日
満蒙開拓団の「語り部」の方々から貴重なお話をうかがいました
中野区の野方WIZ・ギャラリー室で開催されている「戦争と子ども」写真展の会場で17日午前、満蒙開拓団の「語り部」のお二人から戦中から戦後にかけての開拓団にかかわる貴重な体験談をお聞きしました。
「語り部」のお二人は、長野県在住の中島多鶴さん(下伊那郡泰阜村)と久保田諌さん(下伊那郡豊丘村)。お二人とも、今年4月に長野県下伊那郡阿智村に開設された「満蒙開拓平和記念館」を中心に、開拓団の体験を通して戦争の悲惨さを伝える活動に取り組んでいます。
満蒙開拓団については戦時中、27万人もの日本人が各地から参加し、長野県から最も多くの人が大陸に渡りました。敗戦とともに、日本への引き上げの途中、数多くの人が命を落とすなど筆舌に尽くせぬ苦難に見舞われました。
中島多鶴さんは、終戦間際にソ連兵がやって来たとの報を受けて余儀なくされた逃避行のなかで、開拓団の人たちが大きな川を渡るときに小さな子どもたちを川に流してしまったことなど、想像を絶する惨状を語り、「命が最も大事。戦争は絶対にしてはならない。それを若い人たちに伝えたい」と訴えました。
久保田諌さんは、同じような「逃避行」のなかで、一緒にいた73人全員が自決した場所で、若い青年と石でお互いになぐり合って死のうとしたものの、数時間後、スコールで目が覚め、以来、昭和23年に日本の地を踏むまでの苦難の日々を語りました。
中島さん、久保田さんは、「満蒙開拓平和記念館」の設立に奔走してきたメンバーであり、「語らねばならないことは、もっともっとたくさんあり、一人でも多くの人にそれを伝えていきたい」と頑張っています。
戦争の悲惨さを若い世代に語り継いでいくことは、これからますます重要になります。高倉良生も「語り部」の皆様や今回の写真展を企画・開催した皆様と連携して、平和な日本、戦争のない世界を築いていくため、頑張ってまいります。
「語り部」のお二人は、長野県在住の中島多鶴さん(下伊那郡泰阜村)と久保田諌さん(下伊那郡豊丘村)。お二人とも、今年4月に長野県下伊那郡阿智村に開設された「満蒙開拓平和記念館」を中心に、開拓団の体験を通して戦争の悲惨さを伝える活動に取り組んでいます。
満蒙開拓団については戦時中、27万人もの日本人が各地から参加し、長野県から最も多くの人が大陸に渡りました。敗戦とともに、日本への引き上げの途中、数多くの人が命を落とすなど筆舌に尽くせぬ苦難に見舞われました。
中島多鶴さんは、終戦間際にソ連兵がやって来たとの報を受けて余儀なくされた逃避行のなかで、開拓団の人たちが大きな川を渡るときに小さな子どもたちを川に流してしまったことなど、想像を絶する惨状を語り、「命が最も大事。戦争は絶対にしてはならない。それを若い人たちに伝えたい」と訴えました。
久保田諌さんは、同じような「逃避行」のなかで、一緒にいた73人全員が自決した場所で、若い青年と石でお互いになぐり合って死のうとしたものの、数時間後、スコールで目が覚め、以来、昭和23年に日本の地を踏むまでの苦難の日々を語りました。
中島さん、久保田さんは、「満蒙開拓平和記念館」の設立に奔走してきたメンバーであり、「語らねばならないことは、もっともっとたくさんあり、一人でも多くの人にそれを伝えていきたい」と頑張っています。
戦争の悲惨さを若い世代に語り継いでいくことは、これからますます重要になります。高倉良生も「語り部」の皆様や今回の写真展を企画・開催した皆様と連携して、平和な日本、戦争のない世界を築いていくため、頑張ってまいります。
2013年8月14日水曜日
写真展「戦争と子どもたち」の開会式に参加しました
東京・中野区の野方WIZ・ギャラリー室で開催された写真展「戦争と子ども」の開会式に参加しました。
満蒙開拓団に関する資料を展示する同写真展は18日まで。17日(土)午前10時~正午には、2人の語り部による懇談会も開催されます。
開会式では、同写真展を主催したメンバーを代表して小林惣太郎さんが挨拶しました。小林さんは開拓団に参加した人が最も多かった長野県に今年4月、「満蒙開拓平和記念館」(長野県下伊那郡阿智村)が開設され、7月までの3カ月間に予想を超える1万人が来館した状況を報告しました。
さらに小林さんは、戦争の犠牲者は女性や子どもが多いことを指摘した上で、戦争の悲惨さを風化させ、忘れることがあってはならない、として、満蒙開拓団に関する歴史的な事実を多くの人に知ってほしいことを訴えました。また、写真展を準備する中で、自分が知らないことがまだまだたくさんあったことを知ったと述べました。
開会式には、「満蒙開拓平和記念館」のある長野県などで活動する公明党の漆原良夫・国対委員長(衆院議員)も出席し、写真展の開催や記念館の開設に尽力してきた関係者に敬意を表するとともに、戦争につながる動きについては阻止していくとの決意を述べました。
高倉良生もこうした写真展をより多くの人が見ていくことの重要性を訴えました。
会場のギャラリー室には、「中国や朝鮮から帰国した人たち」「開拓団は天国だったのか?」など満蒙開拓団の実情、戦中・戦後に塗炭の苦しみにあえいだ人々の様子、さらには2011年に元開拓団のあった村を訪ねた時の写真、満蒙開拓平和記念館の様子等々、さまざまなテーマに沿った写真資料141点が展示されています。
満蒙開拓団に関する資料を展示する同写真展は18日まで。17日(土)午前10時~正午には、2人の語り部による懇談会も開催されます。
開会式では、同写真展を主催したメンバーを代表して小林惣太郎さんが挨拶しました。小林さんは開拓団に参加した人が最も多かった長野県に今年4月、「満蒙開拓平和記念館」(長野県下伊那郡阿智村)が開設され、7月までの3カ月間に予想を超える1万人が来館した状況を報告しました。
さらに小林さんは、戦争の犠牲者は女性や子どもが多いことを指摘した上で、戦争の悲惨さを風化させ、忘れることがあってはならない、として、満蒙開拓団に関する歴史的な事実を多くの人に知ってほしいことを訴えました。また、写真展を準備する中で、自分が知らないことがまだまだたくさんあったことを知ったと述べました。
開会式には、「満蒙開拓平和記念館」のある長野県などで活動する公明党の漆原良夫・国対委員長(衆院議員)も出席し、写真展の開催や記念館の開設に尽力してきた関係者に敬意を表するとともに、戦争につながる動きについては阻止していくとの決意を述べました。
高倉良生もこうした写真展をより多くの人が見ていくことの重要性を訴えました。
会場のギャラリー室には、「中国や朝鮮から帰国した人たち」「開拓団は天国だったのか?」など満蒙開拓団の実情、戦中・戦後に塗炭の苦しみにあえいだ人々の様子、さらには2011年に元開拓団のあった村を訪ねた時の写真、満蒙開拓平和記念館の様子等々、さまざまなテーマに沿った写真資料141点が展示されています。
2013年8月13日火曜日
名取市閖上(ゆりあげ)に行ってきました
3.11東日本大震災の被災地である宮城県名取市閖上(ゆりあげ)に行ってきました(8月9日)。発災以来、何度も被災地に行き、東京からの支援に全力をあげてきました。閖上は一昨年、都議会総務委員長のとき、総務委員会メンバーで訪れた所です。
閖上には日和山という本当に小さな高台のような山があります。その周辺の住宅は巨大津波によって大きな被害を受けました。一昨年、最初に訪れたときは、その地区の住宅がほとんどなくなってしまった状況を見て、言葉を失いました。
今回、改めて訪れた閖上地区は、かつて住居だったところには、草が生え、家や塀の土台だけが残っていました。近くに小さな港があります。以前、そのそばには震災がれきが山のように積まれていましたが、それがほとんどなくなり、がれきの処理が進んでいました。
写真に写っている右側の小さな山が日和山です。この日も、日和山を訪れて祈りを捧げる人の姿が見られました。東京からの被災地支援をこれからどう進めていくのか、さらにしっかりと考え、都議会で提案を重ねていきたいと思います。
閖上には日和山という本当に小さな高台のような山があります。その周辺の住宅は巨大津波によって大きな被害を受けました。一昨年、最初に訪れたときは、その地区の住宅がほとんどなくなってしまった状況を見て、言葉を失いました。
今回、改めて訪れた閖上地区は、かつて住居だったところには、草が生え、家や塀の土台だけが残っていました。近くに小さな港があります。以前、そのそばには震災がれきが山のように積まれていましたが、それがほとんどなくなり、がれきの処理が進んでいました。
写真に写っている右側の小さな山が日和山です。この日も、日和山を訪れて祈りを捧げる人の姿が見られました。東京からの被災地支援をこれからどう進めていくのか、さらにしっかりと考え、都議会で提案を重ねていきたいと思います。
2013年8月10日土曜日
仙台市の障がい者施設「まどか」を訪問しました
8月9日、仙台市太白区にある障がい者就労支援施設「まどか」を訪問してきました。少しでも復興の力になれれば、と毎年訪問しています。今回は施設を運営する社会福祉法人の毛利憲也理事長と遠藤邦弘施設長と懇談するとともに、施設を案内していただきました。
東日本大震災で被災した「まどか」の新施設は、大きな打撃を受けた被災地の障がい者施設の復興大号として昨年6月に完成しました。昨年8月には、施設の中にパン工房を備えた喫茶室「カフェブラン」がオープンし、地域の方々にも好評です。
施設を利用している障がい者の皆さんは、まゆ玉を利用した手工芸品などの製作に取り組んでおり、それを販売することを通じて工賃を受け取っています。震災直後から製作してきた「福幸だるま」に続き、現在はまゆ玉を生かした美肌用品など、さま
ざまな手作り作品を開発しています。美肌用品は、各地のホテルや旅館で活用されています。
喫茶室「カフェブラン」では障がい者の皆さんもパンづくりや接客などの仕事に従事しています。外の光をたくさん取り入れることのできる開放的なガラスの壁に取り囲まれたスペースには、近所の人や、隣の特養入所者、幼稚園の先生方などが訪れているそうです。
8月28日にはNPOの方々によるコンサートイベントも開催される予定で、イベント会場となる部屋には中野区民からの寄付も活用して導入した新しい音響設備が初めて使われます。施設利用者、そのご家族、近隣の方々が楽しみにしているとのことでした。
毛利理事長は「各地の施設とまどかがつながりを持ち、災害時には相互の助け合う協定などを結んでいきたい」と語っていました。
この新施設の前身は仙台市若林区荒浜にあった「まどか荒浜」という就労支援施設でした。平成23年3月11日の東日本大震災による巨大津波で施設は壊滅し、その後、太白区内の公共施設を間借りして新たな「福幸だるま」づくりに励んでいました。
しかし、震災直後ということもあり、せっかく作った「福幸だるま」の販路が見つかりませんでした。中野区内の高齢者施設の入所者の方々が激励のためにつくった貼り絵の大きなこいのぼりを中野と仙台の公明党議員の連携プレーで「まどか」に送ったことをきっかけに私たちと「まどか」の交流が始まりました。
震災の年の7月から中野区役所で「福幸だるま」の販売が始まりました。それがマスコミで次々に取り上げられ、大きな反響を呼びました。当時の「まどか」の中村正利施設長は「中野での販売が施設復興への起死回生の支援になりました」と語っています。
そして「まどか」は昨年6月、新たな装いのもと太白区内に復興施設を完成させました。
これからも応援を続けていきます。
東日本大震災で被災した「まどか」の新施設は、大きな打撃を受けた被災地の障がい者施設の復興大号として昨年6月に完成しました。昨年8月には、施設の中にパン工房を備えた喫茶室「カフェブラン」がオープンし、地域の方々にも好評です。
施設を利用している障がい者の皆さんは、まゆ玉を利用した手工芸品などの製作に取り組んでおり、それを販売することを通じて工賃を受け取っています。震災直後から製作してきた「福幸だるま」に続き、現在はまゆ玉を生かした美肌用品など、さま
ざまな手作り作品を開発しています。美肌用品は、各地のホテルや旅館で活用されています。
喫茶室「カフェブラン」では障がい者の皆さんもパンづくりや接客などの仕事に従事しています。外の光をたくさん取り入れることのできる開放的なガラスの壁に取り囲まれたスペースには、近所の人や、隣の特養入所者、幼稚園の先生方などが訪れているそうです。
8月28日にはNPOの方々によるコンサートイベントも開催される予定で、イベント会場となる部屋には中野区民からの寄付も活用して導入した新しい音響設備が初めて使われます。施設利用者、そのご家族、近隣の方々が楽しみにしているとのことでした。
毛利理事長は「各地の施設とまどかがつながりを持ち、災害時には相互の助け合う協定などを結んでいきたい」と語っていました。
この新施設の前身は仙台市若林区荒浜にあった「まどか荒浜」という就労支援施設でした。平成23年3月11日の東日本大震災による巨大津波で施設は壊滅し、その後、太白区内の公共施設を間借りして新たな「福幸だるま」づくりに励んでいました。
しかし、震災直後ということもあり、せっかく作った「福幸だるま」の販路が見つかりませんでした。中野区内の高齢者施設の入所者の方々が激励のためにつくった貼り絵の大きなこいのぼりを中野と仙台の公明党議員の連携プレーで「まどか」に送ったことをきっかけに私たちと「まどか」の交流が始まりました。
震災の年の7月から中野区役所で「福幸だるま」の販売が始まりました。それがマスコミで次々に取り上げられ、大きな反響を呼びました。当時の「まどか」の中村正利施設長は「中野での販売が施設復興への起死回生の支援になりました」と語っています。
そして「まどか」は昨年6月、新たな装いのもと太白区内に復興施設を完成させました。
これからも応援を続けていきます。
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